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日本国創成のとき〜飛鳥を翔た女性たち〜 | 飛鳥女史紀行

  1. 推古女帝
  2. 斉明女帝
  3. 持統女帝
  4. 善信尼
  5. 額田王
  6. 地図から名所を探す
  7. 飛鳥女史占

飛鳥には、日本国創成の数々のドラマがあった。

時空を超えて、飛鳥女史と出会う旅がいまはじまる。

推古女帝

推古女帝

東アジア初の女帝は、大物タレントを上手に使って
日本の海外PRを成功させた敏腕プロデューサー

日本に仏教が伝わって以来、その受け入れを巡って争いが続いていました。そしてついに、天皇暗殺という大事件が起こります。この混乱収束のため、敏達天皇の皇后であった額田部皇女が即位。これが日本だけではなく東アジア初の女帝である推古天皇です。彼女は頭脳明晰な厩戸皇子(聖徳太子)と、渡来人との結び付きが強い豪族の蘇我馬子という、ふたりの大物政治家と協力体制を築きます。そしてまず仏教を公認し、百済や高句麗の僧たちから大陸文化を吸収。さらに隋が中国を統一したのを機に、交流が途絶えていた中国からも最新文化を取り入れようとします。やがて隋の都を見た遣隋使の報告により、日本の遅れを痛感し、国内の制度整備に努めます。有能な人材を登用するための冠位十二階、豪族や役人の有り方を示す十七条憲法を制定し、国家の礎をつくります。そして再び「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」で始まる国書を遣隋使の小野妹子に託します。この国書に隋の煬帝は激怒しながらも、使者を日本に派遣。使者の裴世清は開眼前の飛鳥大仏や小墾田宮の様子などを煬帝に報告したと思われ、こうして推古女帝は隋と国交を結び、独立国の地位を守り抜くことに成功します。その後も中国からの最新技術で国内の整備を続け、巧みに国の繁栄を図ったのです。

そのとき世界は…推古女帝が活躍した頃、中国では僧侶の玄奘(三蔵法師)が経典を求めてインドに向かおうとしていました。

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  • まんがでみる推古女帝物語

斉明女帝

斉明女帝

国を大きく変えた大化改新後、土木事業に取り組み続けた、
タブーも非難も恐れない自由奔放なチャレンジャー

蘇我氏の力によって即位した舒明天皇が崩ずると、その皇后(宝皇女)が即位し、皇極女帝となります。この女帝は雨乞いなどの祭祀を行う神秘的な天皇でした。彼女の即位によって、皇位継承の争いが回避できるはずでしたが、蘇我氏は亡き厩戸皇子の一族を襲い、翌年には中大兄皇子らが蘇我氏を滅亡させる乙巳の変を起こします。この直後、皇極女帝は責任を取るカタチで、当時まだタブーであった譲位を行いました。そして次に即位した孝徳天皇は難波へ遷都し、大化の改新を進め、中央集権化を図りましたが、やがて孤立して崩御。その結果、皇極は62歳で再び即位、つまり日本初の重祚を行ったのです。これが斉明女帝です。そして改新によって整備された組織で、斉明女帝は強力な国づくりをめざして、土木事業に力を注ぎます。宮殿やさまざまな施設の建設をはじめ「狂心渠」と非難されるほどの大規模な運河も造ります。また東北に船団を派遣し、領土の拡大をめざします。そして自ら陣頭指揮を取って、唐と新羅が滅ぼした百済再興のため海路で九州に赴きますが、決戦を目前に、68歳で息を引き取ったのでした。彼女の自由奔放に見える行動は、国家の安泰を願ってのことだったのかもしれません。

そのとき世界は…皇極女帝が重祚し、斉明女帝となる少し前、メソポタミアを支配していたササン朝ペルシアが滅亡し、その王子は唐に亡命しました。

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持統女帝

持統女帝

志半ばにして倒れた夫の夢を実現するため、
我が子を後継者にするため、計画を練り続けるプランナー

天智天皇を父とし、のちに持統女帝となる鸕野讃良皇女は、叔父の大海人皇子のもとに嫁ぎます。やがて大海人皇子は、天智天皇の後継者問題に身の危険を察知して、吉野に隠棲。このとき妃の中で讃良だけが息子の草壁皇子を連れて従います。その後、大海人皇子は壬申の乱の勝利によって天武天皇として即位。そして天武天皇は讃良皇后をはじめ草壁、大津らの諸皇子・諸王を中心とする皇親政治を始めます。さらに豪族を官僚とする法整備にも着手。なかでも天武天皇は新しい都の造営に情熱を傾けていました。ところが天皇自ら造営の予定地を視察し、造営を始めた矢先、崩御してしまいます。そこで草壁皇子への皇位継承を実現させるために、讃良は即位せずに政治を行うのです(称制)が、草壁皇子までも3年後に死去。そのため持統女帝として即位し、草壁の息子で7歳の軽皇子に皇位を継承させようとしました。そして都の造営も再開し、天武天皇の夢であった新しい都への遷都を果たすのです。

そのとき世界は…持統女帝が即位したとき、唐では高宗の皇后の則天武后が中国史上ただひとりの女帝として即位し、国を周と改名しました。

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善信尼

善信尼

我が国で初めて出家し、迫害されても信念を捨てずに、
海外留学もさらりとこなす、使命に燃えるパイオニア

仏教は伝来してから何十年にも渡り、その受け入れを巡って蘇我氏と物部氏の争いが続きます。そんな中、蘇我馬子は百済からもたらされた仏像を譲り受け、それを祀ったため争いはいっそう激しくなりました。そして馬子は、仏教弾圧の中で還俗していた高句麗の僧の恵便を探し、司馬達等の娘で、聡明で純真な11歳の嶋を得度させます。彼女が日本で初めて仏門に入った善信尼です。馬子はさらに善信尼を導師として、二人の少女を得度させて僧侶とします。彼女らは馬子の屋敷に建てられた仏殿で、仏像を祀っていました。ところが間もなく疫病が大流行。これを排仏派の物部氏は「異国の神を信仰したため、国神の怒りだ」と、馬子の屋敷を攻め、なんと善信尼ら3人の法衣を剥ぎ取って縛り上げ、海石榴市の辻で鞭打ちの刑にします。この仕打ちにも善信尼は懸命に他のふたりを励まし続けて耐え、挫折することなく、ひたむきに仏の教えを求め続けました。やがて善信尼らは馬子の勧めで戒律を学ぶために百済に15歳で留学しました。この留学は第一回遣隋使よりも早いものでした。帰国後は桜井寺(豊浦寺)にて多くの人々を出家させ、仏教興隆への信念を貫き通したのでした。

そのとき世界は…善信尼が百済から帰国した頃、キリスト教世界の最高の指導者としての地位を築いた最初のローマ教皇グレゴリウス1世が即位しました。

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額田王

額田王

天皇の御心も恋愛も機知に富んだ歌に詠んで
話題をさらい続ける、クールなワーキングウーマン

額田王は斉明・天智朝を中心に仕えた女官で、ときには天皇に代わって歌を詠むほどの歌才にすぐれ、ときには祭事に伴う舞も得意とした、機知に富んだ女性でした。彼女は大海人皇子の娘を生み、出産後も重用され再び出仕しました。斉明女帝が百済再興のために九州へ向かう際に「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と額田王が歌を詠み、兵の士気を高めました。そして近江大津への遷都の際、額田王は飛鳥を離れる悲しみを「三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなも隠さふべしや」と詠んだ歌も残っています。また有名な「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と額田王が宴で歌を詠むと、大海人皇子の「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも」と返歌。さらに中大兄皇子の「香具山は畝火愛しと耳梨と相争ひき神代よりかくにあるらし古昔も然にあれこそうつせみも嬬を争ふらしき」と香具山(男神)・畝傍山(女神)・耳成山(男神)の大和三山を絡めた歌があり、中大兄皇子と大海人皇子と額田王の三角関係を連想させますが、真相はいまや知る由もありません。恋多き女性のイメージが強い額田王ですが、感情を巧みに表現し、万葉の文化をリードした歌人としての功績は計り知れません。

そのとき世界は…額田王が宮廷で歌を詠んでいた頃、東ローマ皇帝コンスタンス2世がシチリア島で暗殺されました。

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