山背大兄皇子の後ろ盾である境部摩理勢が、蘇我蝦夷により殺害されたことで、田村皇子の即位が実現。舒明天皇として推古女帝の跡を継ぎますが、以降、権力を掌握せんとする蘇我氏と反対勢力との間で、次々と争いが起こるようになります。舒明天皇亡き後は、その妻である宝皇女が、蝦夷の強い要請により皇極女帝として即位。その間に蝦夷の息子・入鹿が、一族が期待する古人大兄皇子のライバルである山背大兄皇子一家を滅ぼします。権力を手に入れたかに見えた蝦夷と入鹿の蘇我父子でしたが、そこに起こった皇極女帝の息子・中大兄皇子を中心とした乙巳の変により、入鹿は殺害され、蝦夷も自害。蘇我本宗家は滅亡します。混乱を極めた政局は皮肉にも、この古代史上最大のクーデターによって、ひとときの安寧を得ることになりました。

外交政策に積極的だった斉明女帝。なかでも朝鮮半島に分立する三国のひとつ、百済と友好関係を結び、親交を重ねていました。その百済が660年、朝鮮半島制圧を目論む唐と新羅の連合軍によって壊滅。百済再興をはかる遣臣の求めに応じ、自ら兵を従えて九州へ向け進軍。中大兄皇子や大海人皇子、その妻である大田皇女と鸕野讃良など、多くの皇族を乗せたこの船に、額田王もまた同乗していたのです。ところが、中継地である伊予の熟田津を出発し、朝倉宮（福岡県朝倉市）に到着したとき、斉明女帝が発病。そのまま帰らぬ人となってしまいました。女帝を失った軍は663年の白村江の戦いで大敗。跡を継いだ皇太子・中大兄皇子は、国防に重きを置いた政策を推し進めていくことになります。

白村江の戦いで敗北した中大兄皇子は、国防の最前線である大宰府に「水城」と呼ばれる防衛施設を造るなど、防備を強化。さらにその一環として、瀬戸内海に近い飛鳥から内陸地である近江への遷都を計画します。その裏には、新たな政治体制を築くために、抵抗勢力の多い飛鳥を離れたかった、という事情もあったのでしょう。実際、遷都の翌年にただちに、天智天皇として即位しています。『日本書紀』によると、この遷都に関しては民衆から大きな不満があり、昼夜を問わず火災が頻発したと言います。額田王がこのタイミングで歌を詠んだのも、民や役人などの怒りを少しでもやわらげたい、という中大兄皇子の意図が働いていたのかもしれません。

668年、中大兄皇子は天智天皇として即位。国を治めるための初めての法律となった「近江令」の制定や、全国規模の戸籍台帳「庚午年籍」の作成など、後世に影響を残す諸政策を実施しました。そして額田王は天智天皇の側近くにあって、歌才をますます発揮。それらの歌には漢詩の影響が感じられるなど、漢文学の教養も高かったようです。なお、額田王の娘・十市皇女はこれ以前に大友皇子と結婚し、子供も生まれ、額田王の周辺は公私ともに充実していました。ところが671年、病床に伏していた天智天皇が崩御。翌年、大友皇子と大海人皇子との間で皇位継承を争う壬申の乱が起こり、勝利した大海人皇子は再び飛鳥の飛鳥浄御原宮に遷都しました。近江大津宮は、わずか5年あまりで廃都という非常に短命な都でした。

舒明天皇と皇極女帝の間に生まれた兄弟、天智天皇と大海人皇子。額田王は『日本書紀』の記述によると、弟の大海人皇子との間に十市皇女をもうけます。その後、天智天皇の寵愛を受けるようになったとされていますが、こちらに関しては証拠となるような文献は存在しません。ただ、ここに紹介した歌の、あまりに衝撃的な内容に引きずられたのか、彼らの三角関係が壬申の乱の遠因になった、という説が提唱されたことも。現在ではこの歌を酒宴での座興と捉える見方が主流となっているため、三角関係説も下火になっています。額田王の美貌と才能に惑わされているのは、この兄弟ではなく、私たち後世の人間なのかもしれません。

ここに紹介する歌を詠んだ経緯から、少なくとも6、70歳代まで生きたとされる額田王。推古・斉明（皇極）・持統という、飛鳥を彩る3女帝の時代にそっと寄り添うようなその人生は、ドラマティックな人間模様、美しい飛鳥の自然、現代人にも通じる心のあり方など、私たちに史実以上の多くのものを残してくれました。歌以外、すべてがミステリアスな彼女にふさわしく、没後もまた謎。野口植山城跡（奈良県明日香村）付近を墓とする説もありますが、真相は不明です。